鶴ちゃんの気まぐれ日記

コルンゴルトをこよなく愛する作曲家、鶴ちゃんのページです

2006年09月

北方領土問題に(4)えーーーっ!?

鶴ちゃんの意見と同じ3島返還論が政府内にも???!

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060929-00000013-fsi-bus_all


でも、こういうニュースってなぜか,すぐに消されてしまうのよね。

外国語教育?

「英語教育は中学生からでは遅い・・・小学校高学年から教えるべきだ。」という声で、小学校における英語教育必修化が叫ばれて来たのに、新しい文部科学相になったら、「その必要はない」・・・だそうだ。

そんなに簡単にコロコロ方針が変わってよいものか?と疑問に思うが・・・

それはそれとして、鶴ちゃんは英語教育の早期化に疑問を感じていた。
日本人に必要な外国語教育は、1国際的に通用する外国語としての英語、2、世界で使っている人口の多いスペイン語、3、日本人が接するチャンスの多い近隣諸国の言葉(韓国語、中国語)この3つが考えられるというのに・・・・

「英語だけかよ?」と思ってしまう。

「宇宙は自ら進化した」読了

smolin.jpgリー・スモーリン(Lee Smolin、写真)著の「宇宙は自ら進化した」の2度目読了である。本今回は前回よりはいろいろと読んでいて理解できたように思う。何度も楽しくなった。しかし最後のほうややはり難解だった。

結論にあたる最終章の冒頭に引用されていた、セント・クレア・セミンの言葉を紹介しておこう。「もし芸術におけるモダニズムの目標が古い家を燃やすことであったなら、ポストモダニズムがしてきたことのすべては、黒こげになったかけらと遊ぶことであった。冬がやってくることを考えると、それは実に子供っぽい行動であった。
スモーリン氏がなぜこのような文をここで引用したのか、私には理解できない・・・が、ここに引用された文は芸術に関する価値観の一つを現していることはわかるし、大いに共感もできる。

きっと鶴ちゃんはスモーリン氏の考えに共感できるのだろう(理解さえ出来れば

小野明子バイオリンリサイタル

akikoono_m.jpg約1ヶ月先の10月22日に小野明子さんのヴァイオリン・リサイタルが東京文化会館小ホールで開かれます。私の友人のお嬢さんで、12歳の頃からイギリスに留学し、ユーディ・メニューイン氏のもとで研鑽を積んできました。2000年メニューイン国際バイオリンコンクールで優勝。現在は自身が研鑽したメニューイン氏の音楽学校の講師を勤めておられます。情熱的で力強い演奏・音色が印象的です。

学生の方には2000円で、鶴ちゃんが前売り券を手配しますので、お問い合わせください。皆さんぜひ聴きに行ってくださいね。

チラシはこちら

宇宙・科学と哲学・宗教

本リー・スモーリン著の「宇宙は自ら進化した」を読み返している。とても面白く,興味深い。今回は「哲学、宗教,そして宇宙」という章から引用し紹介しよう・・・

「17世紀から20世紀初めまで考えられていたのと同じように、いまでも宇宙を説明できる科学理論を作りたいという望みは、神を知りたいという探究と深く重なり合っている。その両方が宇宙の「背後」にある永遠で超越した存在から美と秩序が生まれると理解するための,絶対的なものの探究である.この時代のヨーロッパ文化が生み出したさまざまな側面、科学、哲学、神学、芸術のなかに、絶対で客観的な宇宙像を創造しようとする努力が見て取れる。その宇宙像は、私たちの生活の移り変りを、永遠で変化することのない偉大な存在に基づかせようとするものである。神について語っていようが、あるいは永遠で普遍的な自然の法則について語っていようが、支配的な考えは、身のまわりで首尾一貫していると思われるもののもととなる合理性は、宇宙にではなくその背後にある、というものである。」と、・・・このように現代の支配的考え方に対する彼の見かたを述べた上で(中略)彼自身の考え(提案・主張)を次のような疑問文の形で提示している・・・
宇宙は想像上の絶対的な存在で作られており、私たちの外観はその単なる影に過ぎないと考える代わりに、宇宙は関係のネットワークとして作られており,私たちの外観は真実の姿であると考えてはいけない理由があるのだろうか?」と・・・。

ここを読んだとき、鶴ちゃんの脳裏に若い頃に読んだ日蓮の書簡集の一節がよみがえって来た。引用すると・・・(日蓮が最高と位置づける「法華経」とそれ以前の諸経を比較して論じているところ)「彼の経経は・いまだ心あさくして法華経に及ばざれば・世間の法を仏法に依せてしらせて候、法華経は然らず・やがて世間の法が仏法の全体と釈せられて候。爾前の経の心は、心より万法を生ず、譬えは心は大地のごとし・草木は万法のごとしと申す、法華経は然らず・心すなわち大地・大地即草木なり、爾前の経の心は・心の澄むは月のごとし・心のきよきは花のごとし,法華経はしからず・月こそ心よ・花こそ心よと申す法門なり」と。20代の頃にこの一節を読んだ時は、ずいぶん哲学的で難解な印象を受けたが、今読むと少し解るような気がしてくる・・・そして、なんだかとてもリー・スモーリン氏の言っていることと似ているような気がするのだが・・・似ているようでじつは全然ちがうのか?・・・凡人の鶴ちゃんには判断しかねるが・・・(引用文中の下線は鶴ちゃんによる)

いずれにしても、科学も宗教哲学もなかなか難解なしろものだ・・・そして、とっても面白い。

宇宙・科学と哲学・美学

sinka_m.jpg1年前に読んだ、リー・スモーリン著の「宇宙は自ら進化した」をもう一度読み直している。昨年読んだ時は「宇宙の本」第3冊目だったので、まだまだ読む力がついていなかったように思う。その後「宇宙の本」を10冊以上読んでから読み返している今は、書いてあることがとても良く解る気がする。「去年は何を読んでいたのだろう?」という感じだ。
この本の中では、科学的な考え方とともに哲学的な考え方がいろいろと紹介・考察されている。宇宙や事物の背後にある「真理」を追求するという意味で、科学と哲学には共通点が有るからだろう。

そんな中で「美しいものはなぜ美しいのか?」ということに触れて、いろいろと考察している。少し紹介しよう。
「私は唯美主義者ではないし、この疑問に答えるつもりもない。しかし、景色を美しくしている部分には明らかに見るべきものがたくさんある。」(中略)「景色の美のなかには、大きなものから小さなものまで、秒から年まで、すべての尺度、あらゆる時間が含まれている。さまざまなことが起こり、さまざまな調和が生まれ、さまざまなものが作られては消えていく。」(中略)「私たちが住んでいる宇宙は美しい。その理由は、少なくとも部分的には美しい景色や美しい町と同じ、実にさまざまな尺度で多くの現象が起きているからである。したがって、なぜ宇宙は美しいのかという疑問は、それがなぜ興味深いのかという疑問と密接に関係している。」次の章では、「たとえば、花と12面体について考えてみよう。どちらも美しく秩序だっている。花は幾何学模様と同じくらい対称的であるように見える。その違いは、それぞれが構成された方法にある。12面体は1行の記号によって書かれるある対称グループの現れである。完全なものを作れないとしても、紙、ハサミ、のり、あるいは打ち出したコンピュータ・コードによって、かなりうまく表すことができる。それとは対照的に、花は完全ではない。それを詳細に調べたならば、一見対称的に見えたものが理想的な形とはほど遠いものであることに気づくだろう。何兆という細胞内のDNAのらせんからその花弁の配列まで、花の形は、一見対称的のようであるが、それを正確に実現することはつねにできない。たとえ不完全であったとしても、私は花を作ることができない。それは過去をずっとさかのぼって存在した大きな系の産物だからである。その美は、でたらめな過程が積み重なった。何十億年にもわたる進化の結果である。そしてその意味は、他の多くの生物が関係した、はるかに大きい生態系のなかでのその役割にある。」
と、前後の文脈からは、彼にとっては12面体の美しさよりも花の美しさのほうが興味深い、と言っているように読み取れるのだが・・・・ともあれ「美」というものを考えるうえで、なかなか興味深い、参考になる記述と思われる。

浜松合宿

いよいよ浜松合宿の日がやってきました。

行ってきまーす。(^^)Y

合宿中の日記は「鶴ちゃんとみんなの掲示板」に書く予定。

http://0bbs.jp/turuchann2005/

スティーブ・ライヒ氏が世界文化賞

「高松宮殿下記念世界文化賞」の発表が7日ニューヨークのロックフェラーセンターで行われ、音楽部門にはスティーブ・ライヒ氏が選ばれたとのこと。
日本からの受賞にライヒ氏も喜んでいる様子。
鶴ちゃんもライヒの音楽は嫌いじゃないけれど・・・最近はあまり聞いていないなあ。

ニュース記事のひとつはここに


世界文化賞についてはここに
ここをよむと過去の受賞者一覧もあり。「へえ、あの人も」・・・

スティーブ・ライヒ氏についてはここに

あなたがうまれてとってもうれしい!

anataga.jpg「あなたがうまれたひ」デブラ・フレイジャー著
とっても良い本のようですね。今日生まれた人を祝福することも勿論ですが、世界中のすべての人が、生まれたことを祝福されるようであってほしいと思います。

関連記事

「近藤譲の音」鑑賞記

actionmusicさん、こと川島素晴氏の企画・構成による「近藤譲の音」コンサートに行ってきた。すべて近藤譲氏の作品で、日本初演の曲やこのコンサートのための委嘱作品もあるという、楽しみなプログラムだった。
楽器編成によっては指揮者が立つものもあり、それはすべて川島素晴氏が担当した。作曲家が指揮もするというのはかのピエールブーレーズを始め、しばしば見られることだが、今日の川島氏の指揮もなかなか見事なものだった。しかし、演奏中にその「指揮」を見ていて気づいたことがある。
古典的な音楽はともかくとして、現代音楽の多くは複雑なリズムで出来ていて、楽譜をみない限りはそのリズム感を聞き分けるのは難しいものである。しかし、指揮を見ていると、そのリズムがある程度見えてしまうのだ。「ふむ、ここは普通の4拍子なのか」とか「いまは8分の3拍子と4拍子が交互に来ているな」とか・・・まるでスコアの縦線が見えてしまうような感じなのだ。「こういう鑑賞状態って、純粋に音楽を聴くという状態になっていないな、まずいかな?」という思いが湧いてきた。音楽の中でちょっと「はっとする」ような箇所も、事前にその「予告」が見えてしまう。そこで「やっぱこれはまずいよ」と思い、目をつぶって聴いてみた。これなら、スコアの縦線に思いを馳せることなく純粋に音の響きに耳を傾けることが出来る。しかし、そうしていると・・・やがて、眠くなってきた。これもまずい。
そこで、演奏者だけを見て出来るだけ指揮者を見ないようにと思い、指を目の前にかざし「死角」で指揮者が目に入らないようにして聴いてみた。
turu0904m.jpg

演奏家にだけ見えて観客からは見えないように指揮をする方法って無いものだろうか?
そのうち面倒になってきて指揮者を見ていてもスコアを想像しないようになってきた、音楽は難しいことなど考えないで「ぼんやり」聴くのが一番良い???
livedoor プロフィール
記事検索
QRコード
QRコード
  • ライブドアブログ