鶴ちゃんの気まぐれ日記

コルンゴルトをこよなく愛する作曲家、鶴ちゃんのページです

2007年08月

信州の夏(蓼科・軽井沢)

長い夏休みの数少ない家庭サービスとして、信州に1泊旅行に出かけた。無計画に・・・
結局車でたどり着いたのは昔行ったことのある蓼科。昔といっても22年前だ。「確かこのあたりに・・・」と思いながら走っていると、22年前に泊まった民宿の前を通り過ぎた。「今のに違いない」と思って引き返した。
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コーヒーを飲みながら話してみた、「夏なのに鍋料理が出たんですよ」というと「そうでした」という、22年前に泊まった民宿に間違いない。しかし、6年前までで民宿はやめてしまったそうだ。
白樺湖ではボートに乗った。
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後ろに見えるのは蓼科山。登山客もいたが、最近は中高年の人がほとんどだそうだ。
下は湖畔の写真、といっても湖面が写っていない。草が伸びていて・・・
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この角度ならいいだろう。湖面に蓼科山が映っているのが分かるかな?。(クリックで拡大)
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日が暮れると、とても風が涼しく、長袖を持ってこなかったことを後悔したほどだ。さすがに信州の夏は涼しい、避暑地だけのことはある。
(2日目)
車で足を伸ばして、軽井沢方面に行ってみた。尚美のセミナーハウスを昔の記憶を頼りに探してみたら、運よく見つかった。しかし利用している気配は無かった。かなり老朽化したので、建て替えが必要なのだろう。
白糸の滝へ行ってみた。たいした滝ではないが観光客でいっぱい。
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込んでいる軽井沢のメインの町並みは避け、軽井沢駅南口の洒落たお店でおいしいお昼を食べた。
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久しぶりにのんびりとした2日間を過ごした。

月もう12時を回っている、もう28日だ。今日28日は日没後から月が地球の影に入る「皆既月食」が見られる。天気はいかに?日本のどこからでも、その時間は世界のどこから見ても(見えない地域もある)皆既月食なはずだ。

月食の参考ページ

パール判事

安倍首相がアジア歴訪の旅から帰国した。インドではパール判事の長男と面会して「お父様の事を日本国民は尊敬しています」と語ってきたと報じられた。
このパール判事という人は、第2次世界大戦後の極東軍事裁判に於いて日本のA級戦犯全員の無罪を主張した人として日本でも有名である。先日NHKでも紹介番組が報道された。
この事(安倍首相のこと)について、「日本の戦争責任を認めたくないかのごとき行動だ」として、アジア各国から非難の声が上がっている。
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鶴ちゃんは、安倍首相ではなくパール判事の事を弁護しておきたい。

パール判事が、日本のA級戦犯全員の無罪を主張したその理由は、「この裁判そのものが正当性を欠いている」という主張に基づいている。彼の主張は、戦争で行われた「悪事」は公平に裁かれねばならない、というものだ。戦勝国の行った「悪事」も裁かれなければ公平な裁判とは言えない、という主張もあった。戦勝国の悪事の一つに、無差別爆撃である「広島への原爆投下」も挙げられている。これらを公平に裁くのではなく、戦勝国が敗戦国を裁くという構図自体が、人道的に見て公平性・正当性を欠くというものだ。
 戦争が終わったとき彼の目には戦争の悲惨さが焼き付いていた事だろう。このような戦争を2度と起こさないようにするためには、戦勝国も敗戦国も共に戦争に対して反省や戒めの心を持たなくてはならない、と彼は考えた事だろう。戦勝国が「裁く側」に立つ裁判などを行ったのでは、戦勝国は戦争に対する反省を行わず、将来再び戦争が起こる事への歯止めが得られない、と彼は強く憂慮したに違いない。言うなれば、「人類が二度とあのような戦争を行わないように」との強い願いから発して、東京裁判での彼のあの主張がなされたのであろう。
 彼は「日本人の全員無罪」を主張したかった訳ではなく「敗戦国も、戦勝国も、行った悪事は裁かれねばならない」と主張したかったに違いない。

この「正当な主張」も、当時の裁判に集まった「裁く側」の国々には、全く認められる事はなかった。

彼は、認められる見込みのない状況だと判っていながら、堂々と正しい主張を行ったのだ。
私はそのような観点から、パール判事を尊敬している。

パール判事に関する参考ページはこちら

極東国際軍事裁判に関する参考ページはこちら

「現代音楽」は「音楽」ではない

もちろん、「現代音楽」と言っても多種多様ですから、私の書く事が当てはまらないものも有る事は承知しています。ま、自分の考えを整理する意味で書いておこうと思います。

「目的と手段」という事で考えると、音楽の表現上の技法は「手段」に当たると思います。
20世紀になって発展したいわゆる「現代音楽」は、19世紀までの音楽の表現技術や表現上の習慣や伝統と言った「くびき」「制約」から逃れてより自由で多彩な表現方法を模索しました。表現者としては当然の事だと思います。そして、新たな表現方法を試みる中で、それまでの伝統的な音楽に見られる常識や習慣を打ち破り、新しい表現方法を次々と開拓して行ったのですが・・・・そのためにというか途上にというか・・・それまでの音楽の伝統や常識や習慣と言うものを「否定する」ことによって新たな表現法や表現形式を生み出して行った事のなかに、一般の音楽愛好家がついてこられなくなった原因が有るように鶴ちゃんは考えています。古いものを「否定しないで」新しい表現を生み出す事は出来なかったのかどうか・・・難しい問題です。

メロディーについてはそれまでの音楽の常識だった「主音」や「音階」を否定し始めます。和声においてはそれまでの音楽の主流だった「調性」を否定し始めます。リズムについてもそれまでの音楽の常識を様々な形で打ち破り複雑なリズム表現を用いるようになりました。形式についてもそれまでの音楽に有った有節形式はもちろんの事、主題やその展開や再現といった方法すら捨てて、もっと別の方法をさまざまに追求しました。楽器の音色についても(これはそれまでの「楽音」を否定はしませんでしたが)、それまでの常識にない音の出し方を追求しました。電子音を使い、偶然性を取り入れ・・・さまざまな角度で、19世紀までの「音楽」で「当たり前だった」ものを打ち壊して、新しい表現を試みてゆきました。今21世紀になって、それらの実験はもうほとんど出尽くした感が有ります。(まだまだ・・・と言う声も有りそうですが)

以上は表現方法の問題で、どちらかと言えば「手段」に当たるものですが、では「目的」という事ではどうなのでしょうか???
音楽は何のために有るか?、何のために音楽を作るか?誰のために?・・・・これについては、「こうだ」とか「こうであるべき」などどはっきりとした事は私からも言えないけれど、「現代音楽」が「聴衆のために」という姿勢を捨てたのではないか?、とはよく指摘される事の一つではあります。それの是非や善し悪しはここでは論じない事にしましょう。しかし、19世紀までの音楽は「聴く人の心に訴えるもの」があり、「感動を伝える」ものだったり、「聴く人の心を慰める」効果とか「聴く人の心を勇気づける」ことや「聴く人を愉快な気分にさせる」などの効果があったものです。20世紀以降の「現代音楽」にそのような効果を期待する人はあまりいないと思われます。「現代音楽」をぼんやり気分だけで聴いて「楽しめる」人は少ないのではないでしょうか?「現代音楽」は作る人にも聴く人にも、強い知的な力を要求しているように思われますが、どうなのでしょう?

ここらで、おおざっぱながら結論のような文章に進むとしましょう。「現代音楽」は、感性で味わう「音楽」から派生し、「芸術的感覚」と「科学的精神」との両方がミックスして進化してきた新しい表現形式である「何か」だと思います。
それまでの「音楽」の制約から逃れようと、それまでの「音楽」を形成してきたさまざまな要素を次々と「否定」して新たな進化を遂げてきた「現代音楽」は、もはや実験の段階はとうにすぎて完成の高みに有り、一つのジャンルとしての確立を遂げているのです。社会的地歩も築いています。いわば「見事に独立を成し遂げた」分野といえるでしょう。ですから、もうそろそろ古い「音楽」という名で呼ぶのをやめてあげても良いのではないでしょうか?
そう。「現代音楽」は「音楽」ではない!

鶴ちゃんとしては、19世紀までの伝統有る「音楽」の表現方法を「否定はしないで」新たな表現の可能性を追求している、まじめな「音楽」の継承者のつもりですが、そういうものをなんと呼べば良いか・・・「新ロマン主義」なのか「超古典主義」というのか?「低進化クラシック」??「後衛音楽」???・・・はてさて??、
まだまだかすかな勢力でしかないので、適切な呼び名もない状況では有ります。

ところで・・・
happy birthday to you....Claude Achille Debussy 1862.8.22生まれ

(いいなあ「印象主義」って名前で呼んでもらえて、え?気に入ってない?)

終戦記念日は平和祈念日

今日は終戦記念日。
予想通り、阿部首相の靖国参拝は無かった。民主党の小沢氏はどうだったか?

夜7時半からNHKの特集番組が始まる。
その前に鶴ちゃんの考えを書いておこう。
1.ユネスコ憲章にあるように「人の心に平和の砦を築かねばならない。」
2.憲法第9条にあるように「国際紛争を解決する手段としての武力は」絶対に認めてはならないし、平和的手段で国際紛争を解決するイニシアチブを日本は取るべきである。その象徴としての核兵器は、「廃絶」に向けて粘り強く運動を進めるべきだ。

しかしながら、日本は敗戦国でありアメリカの統治の下で戦後復興を成し遂げた、アメリカには恩がある。同盟国でもある、そのアメリカは「国際紛争を解決する手段としての武力は当然行使するべき」という立場で、日本はアメリカとの同盟関係と憲法の平和の理念との間で板ばさみになっている状態だ。
ここで、どうするか・・・日本国民は真剣に考えてゆかねばならない。
もちろん鶴ちゃんの意見は、「アメリカの言いなりにならないように」「アメリカの武力肯定の姿勢に追随しないように」独自の平和外交を堅持するべきだと思う。

アメリカべったりは、もうやめるべきだ。

追補、しかしながら専守防衛のための軍隊を持つことは認めるのも一つの選択かと思う。ただし平和的解決の努力を何よりも優先するべきで、その点では世界の模範になるべきだと思う。
「日本は軍隊があるのになぜそれを行使しないのか?」「それが日本の立場だからだ。」ということが世界に知れ渡ればよいと思う。(・・・今と同じか?・・・今以上に!)

母の死

前の日記に書いたように、2007年8月9日夜、母が永眠しました。
多くの方々から、お悔やみのメールやメッセージ、電報をちょうだいし有り難うございました。

母は23年前に心筋梗塞を患い、心臓の筋肉の約3割が壊死した状態で療養を続けていました。また、10数年前には乳ガンも発見され手術で摘出しました。母は病を抱えながらも元気に過ごし、国内や海外への旅行にも出かけたりしていました。半年前まではまだ自分で車を運転して通院や外出をしていましたし、85歳の誕生日を迎えた今年5月にもクラス会に出かけるほどの元気ぶりでした。しかし5月下旬に足の痛みを訴え、検査の結果、10年前のガンが再発してすでに末期にあり、リンパや骨にまで転移してしまっている状態とのことでした。その後も気丈な母は人の手を借りないで家の中でも自分で杖をついて歩き、回復に努めていました。しかし気力は有っても病気は進行し、ついに自宅のトイレまでも自分の脚で歩いて行くことが出来なくなり、7月18日ホスピスに入院しました。その後は多くの親族や知人が見舞いに訪れ、私も息子や孫を会わせるために東名高速を2度往復しました。すべての兄弟や子供、孫、曾孫や親族と対面をすませ、心残りのなくなった数日後の8月9日夜、眠るようにこの世を去りました。85歳でした。

キリスト教では人が死ぬと普通「神様のいる天国に行った」と考えるようです。仏教でもそれとよく似た考え方「極楽へいって仏になった」というのもあるようですが、もうひとつ、三世の生命(過去世ー現世ー未来世)という考え方にもとずき、人は死によってしばし休んだあとまた新たな命に宿って誕生してくるという、いわゆる「生まれ変わる」という考え方があります。鶴ちゃんはいろいろと宇宙や物理・科学の本を読んだり仏教関係のものを読んだりしたことや、自分自身の経験したことや直感を総合した結果、「人は死んでもまた新たな命に生まれてくる」という考えに立っています。そのように考えたほうが、いろいろなことが納得できるし、だいいち人生が楽しいし、ロマンがある。ま、人それぞれいろいろな考え方もあることでしょうけれど・・・。
で、死んだ母に「未来世」で会えたとしても、通常「過去世」の記憶などは持っていないので、お互いそれに気づくことはない・・・そのような形ではあっても、わたしは「母にはまた会える」と考えることが出来る。これは理論で説明できることではなく、哲学・・・心の持ち方の問題です。


告別式ではもちろん涙ぐむ人や鼻をすする人はいましたが、出棺の時、司会(葬儀屋の人)が「いよいよ(!)最後のお別れです」と言っても、誰も声を上げて泣き出す人はいませんでした。司会の人がもう一度「これが最後です」と繰り返しましたが・・・誰も泣く人はいません。
親族のあいだには、別れの悲しみよりも、85年の人生を生きた母の見事な終幕ぶりを讃える雰囲気が満ちていたように、私には感じられました。

そんなことを書いているうちにベートーベンの有名な最後の言葉といわれているものを思い出したので、その言葉を引用してこの日記の結びとします。ありがとうございました。

「諸君、喝采したまえ。喜劇は終わった。」(L.V.Beethoven)

母が、昨夜、22:52、安らかに永眠いたしました。
享年85歳でした。
生前のご好誼に厚くお礼申し上げます。

鶴ちゃんは高校1年生から親元を離れたので、母との思いでは中学時代までが多いです。もちろんその後も時折会っていましたけれど。別居期間が長いのですぐには別れの実感が湧きませんが・・・
かけがえのない立派な母だったと思います。
                     合掌

思い出の夏(3)瀬戸内海

このブログで以前、大学1年の夏と2年の夏の思い出を紹介した。今回は大学3年の夏休みの思い出を紹介しよう。
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大学3年生の夏休みには、京都出身の作曲科の同級生M君に誘われ、四国の海へ海水浴に行った。M君の実家はバレー学院経営で、バレエ学校の若い先生方が一緒だった。男性の倍も女性がいた。ま、それだけでも楽しい旅だった事は間違いないが、鶴ちゃんにとって四国へ旅行したのはこのときが最初だった。今のような本州四国連絡橋はまだなかったので、船で高松へ渡り、高徳線の讃岐白鳥という駅で降りた。バレエ講師のどなたかの実家(だったと思う)に宿泊させていただいて、3泊4日くらいの海水浴だった。浴衣姿で夜の散歩や花火を楽しんだり、昼は浜辺や岩場での海水浴を楽しんだ。女性たちは私の事を、当時の人気俳優ハイラム・ケラーにことよせて「ハイラム君」と呼んでいた。(ハイラム・ケラーの写真はこのページで

さて、鶴ちゃんは泳ぎは得意でも不得意でもない。スピードを競えばとてもかなわないが泳ぐ事は出来るのだ。短距離走は苦手だが長時間のハイキングは得意だ・・・という事に似ている。
四国の海も瀬戸内海側は波がとても穏やかで、泳ぎやすかった。平泳ぎで首が疲れたら仰向けになって青い空を眺めながら背泳ぎ(浮かんでいるだけ)で、という事を繰り返していたらなかなか疲れなくて、いつまでも浮かんでいる事が出来た。海岸から少し離れても不安はなかった。沖でヨットを楽しんでいる人の近くにきたときは、溺れているのと勘違いされてもまずいので背泳ぎをやめて平泳ぎで通り過ぎた。そんな事をして・・・1時間以上も海上浮遊を楽しんでから岸に向かって戻って行った。浜辺に近づいたところで船に乗っている人から声をかけられた。「鶴原勇夫さんじゃないけ?」「・・・そうですけど」「良かった。捜索願が出てるんで、乗ってください」あららら・・・・
「沖の方へ泳いで行ったきり、1時間以上経っても帰ってこない」というので、心配した仲間が捜索の船を出してくれたのだった。
私はただ海を楽しんできただけなのだが、「すみませんでした」と謝って、地元の人たちにビール1ダースを届けるはめになった。今思い出してもなかなか楽しい思い出だ。四国の帰路は徳島に寄り、「阿波踊り」を楽しんでから京都へ帰った。(上の写真は瀬戸内海の写真ですが、記事当時のものではありません)

関連して思い出した海水浴の話を一つ、
1994年の夏、新潟の角田浜へ家族で海水浴に行った。子供は小5、小2、幼稚園年中の男の子3人。
日本海の海は瀬戸内海ほど穏やかではなかった。ある時ふと気がつくと、小5の長男が沖で一人で泳いでいたが、手にしていたはずのビニールの浮き輪がない。風でどんどん沖へ持って行かれてしまったようだ。浮き輪に追いつけないと悟って泳いで岸に向かっているようだが、なかなか岸は遠く・・・「やばい!」と思った私は急いで泳いでたどり着いたが、そこは私の背も立たない深さだった。私を見つけた息子は私の首にしがみついた。私は息子に沈められてしまった。「しがみつくとお父さんまで溺れてしまう、持っていてやるから自分でしっかり泳ぎなさい」と言い聞かせ、左手で息子の右脇の下を支えながら、残る3本の手足で泳ぎ岸へと向かった。まるで2人3脚の心境だった。そこからも岸はなかなか遠かったが、やっと足が海底の砂についたときはほっとした。「死ぬかと思った」という言葉は形容詞ではなく、本当に紙一重の出来事だったように思う。
連日の不幸な水の事故のニュースを見るたびに、あの日の自分(もしかして自分がそうなっていたかも・・・)を思い出す。

靖国参拝

今年もまたやってきましたね、あの季節が・・・

安倍首相は首相でいる限りは公には参拝しないらしいですね。

ところであの人はどうなのでしょう?
「どちらが総理にふさわしいか判断してもらいたい」と言われた選挙で勝利した民主党の党首、小沢一郎さんは?
http://www.youtube.com/watch?v=mkEP-bBLsCs
http://kuyou.exblog.jp/4013935

「堂々と行くべきだ」と過去には発言しているようですが。さて?

鶴ちゃんは参拝した事は一度もありません、むかし修学旅行の自由時間のとき見学に立ち寄っただけです。
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