鶴ちゃんの気まぐれ日記

コルンゴルトをこよなく愛する作曲家、鶴ちゃんのページです

2008年04月

人権問題入門

チベット問題がオリンピックまでに解決されるのだろうか、何かと世界情勢が気になるこのごろです。
さて、国際社会に於いては「内政不干渉」という原則があります。しかしこの原則よりも「人権」というものが優先するという考え方も有るようです。「人権が何よりも優先されるべき」という考えに、鶴ちゃんも基本的には賛成です。しかし、現実は単純に割り切れない事も多い・・・・・

政治と宗教は役割分担をきちんとし、混同しないように「分離」した方が良いという考え方が有ります。とくに、「政治の方から宗教に介入する事は人権侵害に結びつく恐れが有る」ということで、そのために憲法に政教分離をうたっている国も有ります。

ところで、話題の中国とチベットですが・・・・

中国政府がチベット仏教界に対していろいろと介入しているというニュースは今までによく聞かされました。 ・・・それに対して

チベット仏教では身分差別が残っていて、奴隷階層が5%ほどいた。奴隷の子供の手の皮を剥いで生け贄として差し出すという習慣が最近まで有ったそうだ。中国共産党政府は奴隷達を解放するために、そのような習慣をストップさせた・・・・というような話は今日始めて知りました。

(仮にその話が真実だったとして)
あなたは、中国共産党政府を支持しますか?それとも宗教への介入を非難しますか?


そういえば、若い頃かじった仏教の本に「身の皮を剥いで仏に供養する」という説話も有ったような・・・・ともあれ、「チベットの伝統やしきたりや文化も中国共産党の考えに合わないものは制限されてしまっている」という話は或る程度は本当の事らしいですね。ただ、それを「可哀想に」と単純に結論を出してよいのか?(「身分差別は撤廃して平等な社会に」という主調にも妥当性があるし)・・・・はて?さて?・・・・・双方が納得できる結論を、よーく当事者同士で話し合ってもらいたいものです。

「・・・というような話」はこちら

廃線詩情・・・

lostrail.jpg
時々通勤で走る田舎道・・・使われなくなった線路が残っています。

どんな使われ方をしていたのだろう?どんな人が働いていたのだろう?その人たちは今・・・?
いろいろな事を勝手に想像します。

この線路はこの先(写真からは後ろの方向)で、入間川にぶつかって途絶えています。
入間川護岸工事のための資材を運ぶトロッコ線だったのでしょうか?

「五体投地」(チベット仏教)

テレビテレビを見ていてあれこれ考えたことを、自分自身の考えをまとめるために文章化してみた。長文なので、暇なときに読むかスルーして(無視して)ください。

5body_m.jpgシルクロードの特集番組で、中国の「青海省」を取り上げていた。その中でチベット仏教(ラマ教)の青年修行者が「『五体投地』の修行をすれば亡き母の魂が救われる」と言っているところがあった。合掌しながら体を地にはわせ腹這いになり、起き上がって何歩か歩き、また腹這いになって・・・の繰り返し。その歩き方で2年間歩き続けて来たそうだ。

この番組の取材をしたのは、2008年3月14日よりも前のことだろう。だから、今起きている「チベット問題」に関する何らかのメッセージが込められていたとも思われない。しかし、見ていると「チベット問題」が浮かび上がってくる内容もあった。「私たちの聖地にお参りするために、チベット(自治区)からやってきた」という人がいた。チベット民族にとって「聖地」である寺院か何かが、現在は「チベット自治区」の外にある・・・という意味だ。そこ(青海省)はかつては、チベット国と位置づけられていたこともある地域だが、今は「チベット自治区」に含まれず「青海省」という中国の土地になっている。まさにチベット問題が見え隠れするのだ。インターネットで調べたところ、チベット人たちが多く住む地域というのは、チベット自治区の隣の「青海省」の大半や、東となりの「四川省」の半分くらいまで広がっている。かってはそこも「チベット国」だった時期があるのだ。ダライ・ラマの生まれた地も青海省内にある。こういうのを見ると、居住する実情にあわせた国境を引き直してやればよいのに・・・と、チベット民族に同情したい。が、簡単には行かないだろう。
 世界には独立を求める民族がまだまだいる。先だって「コソボ自治州」が独立を宣言した。諸外国は独立を承認する国とそうでない国に分かれている。日本はどっちだ? たとえばクルド人たちはトルコやイラクなどの国に分かれて居住しているが、独立した国も自治州もない。将来的には独立を目指しているように見える。そのような問題は世界のあちこちにあり、周辺国や関係諸国も簡単に独立を認める訳には行かないのが実情だろう。独立でなく革命で権力者を倒した勢力に対し、あらたな正当な国家体制として承認するかどうか、という問題の場合もあるだろう。中華民国政府を倒し、中華人民共和国という共産体制をつくった現在の中国も、はじめはなかなか承認されなかったかも。しかし、今は承認されている。世界が承認した中国に「チベット自治区」も含まれている。

チベットは80年代にも一度独立を求めた争乱があったようだ。壊滅させされるのを防ぐためにダライ・ラマはインドに亡命した。今は、「経済や防衛(軍事)は、(チベットだけでやれといってもできっこないので)中国の一部でよい、しかし宗教や文化はこちらの言い分を認め『高度な自治』を認めてほしい」・・と言っている。信教の自由は認められているものの、「社会体制を破壊する恐れのある行為は禁止」ということで、僧侶がつねに監視されたり、ダライラマの肖像を飾ることが禁止されていたりする。名ばかりの「信仰の自由は認められている」なのだ。
確かに、「自由といっても、社会に迷惑をかける自由は含まれていない」とは、先進国でも言われることである。自由に対しある程度の制限が「社会秩序を守るために」加えられることは認めなければならない。その意味では中国政府の言い分も基本的には尊重されるべきなのかもしれない。しかし、ダライラマの肖像を掲げることは、極めて精神的な、信仰の根幹に触れる部分なので、それを取り締まるのは「人権」という感覚に抵触する。「そんなことぐらい認めてやればよいのに」と私は思う。それに関連して思い出すのは、フランスの公立学校で、「信仰の自由は認められているが、信仰の表現は(公立学校は中立な場なので)制限される」として、イスラム教徒の女子学生のブブカ(髪を隠すかぶりもの)が制限されたという話を思い出す。こんなのは「人権侵害」にあたるのでは、と私は思っていた。最近話題なのが「free tibet」ならば、こちらはさしずめ「free france」といったところか。

さて、「五体投地」とは「五体を地に投げよ」との釈迦の教えのようである。シルクロードの番組内では、舗装されたアスファルトの道路を青年僧が「五体投地」の動作をしながら歩いてゆく様が映し出されていた。新しい現代の息吹と、古くて伝統的なものとを一つの映像内に象徴的に映し出していて印象的だった。しかし、人があのような尺取り虫のような動作をすることにそんなに意義があるとは、私には思えない。いったい「五体投地」にはどんな意味があるのだろうか?

体を地面に投げ出せば体が汚れる。普通は誰もそんなことはしたくない。自分の身を汚してまで何をせよというのか?釈迦が弟子たちに言ったとすれば、それは「人々を救う行動をしなさい」ということかもしれない。人々を救うために我が身の汚れることなど気にしてはならない、ということだろうか。人々を救うための行動で「我が身が可愛い」という、エゴイズムを超克しなさい、という意味の教え(修行)だろうか。また、「地」とは、最低ランクのものを意味することもある。身分が最低の人々、高い身分にある人々から見て「汚らわしい」と感ずるような、貧しい人々、地位の低い人々の中へ身を投げ出しなさい、「一般大衆の中に入っていきなさい」という趣旨ともとれる。「悟りを得ようとする修行者、人間的完成を願う者ならば、我が身可愛さを捨て、弱い貧しい苦しんでいる人々の中へ入って、その人たちを救うために全身全霊で行動しなさい。」という趣旨に「五体投地」を解釈するならば大いに納得できる。
宗教の教えは、文字で表された意味よりも、文字の中に秘められた「真意」を読み取ることが必要ではなかろうか?。

そういう意味で思い出すのは、あるキリスト教系の(異端とされている)一派で、「血を奪ってはならない」という聖書の言葉をそのまま受け取って、輸血を拒否して中学生の子供を死なせてしまうという、日本で起こった出来事だ。「血を奪ってはならない」という言葉は、「命を大切にすべきだ」とか、「他人の大切な物を奪ってはならない」とか、「他人の不幸の上に自身の幸福を築こうとしてはならない」という趣旨に解釈したいものだ。助かるはずの子供を死なせてしまうなど愚かなことで、聖書に書かれている言葉の「真意」とも思えない。言葉の表面の意味だけにこだわって人間らしい判断・行動ができなくなってしまう「原理主義」は、他の宗派や思想にもありがちなことで、そうならないように気をつけてゆかねばならないと思う。

私はキリスト教信者ではないが、聖書に書かれていることや、書かれている「真意」は何であろうか・・・ということには関心がある。あの、マグダラのマリアに関するエピソードも、一般の人々からは汚らわしい存在とされていた娼婦に対して、かわらぬ人間としての対応をした、イエスのヒューマニズムと思ってみれば、それは「五体投地」を教えた釈迦と同じ構図の「人間は皆平等」という、聖者のエピソードだ。人間として扱ってもらったマグダラのマリアが感激のあまり涙が止まらなかったということが、「マリアが涙でイエスの足を洗った」という説話になったとしても、それを「涙のわずかな水量で足など洗えないのではないか?」などと科学的に分析してもナンセンスなのである。文字や文章は、真意を読み取る深さが求められる。
指導者というものは、哲学の深みを磨かなければならないし、人々を「従える」のではなく、人々を「納得させる」力を持たなければならない。精神的指導者も、政治的指導者も・・・・

そんなわけで、日本の政治家に対してもこの際「五体を地に投げよ」と言っておきたい。

チベット人居住地に関してはここなど
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A0%E3%83%89

チベット観光情報ならこちら
http://go.travel.mag2.com/e/mag2/ab/asia/china/qinghai_province/

映画「砂漠の朝」

ふふ・・・・・むふふ・・・・・むふふふっ



むふぁっはっはっは・・・笑い




anotherdawn_m.jpgムービー遂に手に入れました!。もう駄目かと諦めかかっていた、コルンゴルトが音楽を担当した映画「砂漠の朝」(Another Dawn)、鶴ちゃんにとってコルンゴルト映画の最後の一本!。有名なバイオリン協奏曲の第一楽章に使われた主題が作曲された、幻の映画「砂漠の朝」。
ついにDVDを手に入れました。びっくりドキドキ大

早速そのDVDを観ながらこの文章を書いているが、コルンゴルト・サウンドが炸裂している!譜面

「そうだ、行け行けーーー!」ロケット

・・・・


ちょっとコルンゴルトの話となると、おかしくなる鶴ちゃんです。この1枚は特別です。

オリンピックって何?

tibet01.jpgテレビオリンピック問題がなかなか下火にならないで続いている。聖火リレーが続いているからだ。もうすぐ日本で聖火リレーが行われるらしいが、長野の善光寺が、予定されていた出発地を辞退すると発表した。地元の高校でも当日は臨時休校するところが有るらしい。これらは皆「抗議活動による暴徒が発生しては困る」という理由からだ。あの、「右翼の宣伝車が来ると困るから日教組大会の会場を断った」ホテルと同じ構図と言える。別段、中国の人権問題に抗議するために聖火リレーの受け入れを断ったわけではない。「暴徒はいや」という、ただの「事なかれ主義」に見える。・・・なんだか情けない。

オリンピックは、すべての国の代表が全く平等な立場でスポーツで競い合い、交流を深める場だ。現実の世の中は先進国と発展途上国、富める国と貧しい国という、差別や「格差」に満ちている。しかしオリンピックの場ではどの国も全く平等だ。「私の国を負かしたらお前の国を経済制裁してやる」などと脅される心配も無い。「人類は皆平等」「肌の色が違っても話す言葉が違っても、皆同じ人間だ」という気持ちにさせてくれる、きわめて平和的な「場」のはずである。どの国の・・・というわけではない、いわば人類の文化なのだ。「現実の世の中が差別に満ちているのに、平和の幻想を与えるのはよくない」などと、斜めから見るような見方も有るかもしれないが、・・・「まず心に平和のイメージを抱く事が平和を築く出発点になる」のだから、幻想と言われようが何だろうが、平等で平和的な「場」であるオリンピックを大切にしたいものだ。鶴ちゃんはボイコットには反対である。

tibet02.jpgチベットの問題は、確かにチベットの人たちにとって我慢ならない中国の状態が原因なのだろう。デモをきっかけに不満が爆発し、(外からチベットに入って来てしこたま儲けている中国人の)商店への襲撃や放火、略奪などの暴力行為が起こってしまった。法的に見れば犯罪者は暴徒であるチベット人達の方であろう。それがいつの間にか「中国の人権問題」になってしまってマスコミを賑わせている。インターネット時代になった頃「これからは情報の時代、情報を制するものが勝つ」と言われていたが・・・人権活動家達が、この情報戦では勝利を収めているようだ。まことに巧妙を極めている。多くの人々には、まだ「情報ジャック」への免疫が出来ていないようだ。


しかし、鶴ちゃんとしては、「これはこれ、それはそれ」とちゃんと整理して考えたい。そして、オリンピックが人類にとって貴重な平和的心の文化遺産と思うから、或る政治的イデオロギーの意見表明のデモンストレーションで、あまり汚して欲しくないものだ。
あのダライ・ラマだって「オリンピックはちゃんと開催されるべきだ」と言っているじゃないか。非暴力主義者の味方をする人が暴力をふるってはいかんと思う。

写真の出典は以下のURLです。
http://www.jiji.com/jc/d2?p=tbt00102-6048544&d=004soc
http://www.jiji.com/jc/d2?p=tbt00101-6090843&d=004soc

「量子宇宙?」

smolin02_.jpg本リー・スモーリン著の「量子宇宙への3つの道」という本を読み始めている。宇宙の外には何も無い・・・から始まって、アインシュタインの相対性理論など、現代の物理学の基本的な考え方を判りやすく解説している。かなり解っていたつもりでいた事でも「なるほどね」と思わせてくれる。

ま、いくら解りやすく書いたとしてもなおかつ「解りにくい」のが、宇宙なのだが・・・。

この本は2002年に日本語訳で出版されている。これよりもっと新しい彼の著作も出ているので、この本の次はそちらも読もうと思っている。

ところで、この本の原題は「three Roads to Quantum Gravity」だ。ならば、「量子宇宙」と訳すよりは「量子重力」と訳した方が良かったのではないか?
「宇宙」の文字を入れておいた方が、一般の人が多くこの本を買ってくれる・・・と考えたのかな?

花弁?

鶴ちゃんはこれまで、「ふつう花びらの数というものは5枚が基本・・・花びらが5枚で出来ている花はとても種類が多いから。」と思っていた。
2008年の春もたけなわな今日この頃、あちこちで花を見かける。花びらの数を観察してみると、必ずしも5枚ばかりとは言えないようだ。

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桜の花はもちろん5枚・・・他にも・・・
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5枚の花は多い。すみれや蘭系もそうだ。しかし・・・
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水仙や百合、チューリップなどは6枚である。
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菜の花の一つ一つは4枚の花びらである。大根の花もそうだ。
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こんな様にさらに多くの花びらのものもある。菊、ダリア、椿や八重桜などもそうだ。
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しかし、この花の花びらをよく観察してみると、螺旋状に並んでおり。その螺旋の数は5周になっている。・・・やはり5枚の「基本」から進化して多様化したのだろうか??

・・・鶴ちゃんは「進化の秘法」を手に入れた!?

犬の散歩に近隣を歩くとき、花の前で立ち止まってばかりいる最近の鶴ちゃんです。

レ・ミゼラブル

先日の「世にも奇妙な物語」の「これ・・・見て・・・」では、戸田恵梨香がマイミクのMT子さんと重なってリアルでした・・・ま、そのはなしはおいといて・・・

ロンドンで見たミュージカル「レ・ミゼラブル」のことを調べているうちに、同じ原作の別の映画をもっと見てみたくなった。既に見たのはジャン・ギャバン主演のもの(1957年)、ニーアム・リーソン主演のもの(1998年)それにテレビ向けに作られたジェラール・ドパルデュー主演のもの(2000年)の3作だった。今回別の2本を中古ビデオで見た。

lesmise_jpbm.jpgムービーまず、先に観たのはジャン・ポール・ベルモント主演のもの(1995年)この映画を見始めてすぐに、これはユゴーの原作をもとに舞台を20世紀に置き換えた作品と判った。「なんだ、原作とは別物なのか・・・」と始めはがっかりしたが、見ているうちにどんどん面白くなって、最後まで見てしまった。原作ではフォンテーヌが養父に預けてある娘コゼットに仕送りするために売春までするが、この映画では冤罪で(パン泥棒ではない)牢に入れられている夫を脱獄させるために妻が体を売っている。原作ではジャン・バルジャンは刑期を終えて牢を出るが、ここでは脱獄に失敗し水路で死ぬ~それを知った妻は自殺。原作は牢を出てからのジャン・バルジャンの物語だが、この映画では両親に死なれて残された一人息子の物語として続く。原作は後半で共和制を叫ぶ学生運動が王政の軍隊に弾圧されるが、この20世紀バージョンでは第2次世界大戦でドイツ軍から逃れるユダヤ人達の地下生活にデフォルメされている。単純な焼き直しパクリでなく、いろいろな工夫が有って面白い。20世紀のジャン・バルジャンがユゴーの原作を読んでもらうところではそのストーリーを映像化するのにかつての名作映画(ジャン・ギャバン主演のもの)にそっくりな映像を作っているが、微妙なところで違っている。その違いがまるで、トリュフォー監督が「僕だったらもっとこんな風に表現するけどな」言っているようで面白い。その他にもいろいろな意味で面白い、吹き出しながら観たところも有る。しかしこの映画の面白さ、素晴らしさを理解するには、原作はもちろん、あのジャン・ギャバン主演の映画も知っておく必要が有りそうだ。他の映画を3種類も観たあとでこの映画を観たのは正解だったかも。


lesmise_lvm.jpgムービー次に観たのがリノ・ヴァンチュラ主演のもの(1982年)。この、リノ・ヴァンチュラ主演の映画は逆にとても原作に忠実と言うか、とにかくリアルに描かれている。映像も演技も作ったような感じがしなくてとても自然な表現で・・・・いかにも本当に有ったことのような気分にさせてくれる。この映画を観ると、それまでに見た映画が皆「作り物」だったように思えてくる。徹底したリアリズムだ。センチメンタルな台詞も極力排除されている。たとえば、他の映画ではジャン・バルジャンと追いかけ回して来たジャベール警部とが死ぬ直前に会話をしたりする。「どうして俺を殺さないんだ?」「わからないか?哀れなやつ。」・・・しかしこの映画ではそんな会話は無い。最後に護送する馬車で2人が隣り合って座っていても何も会話が無く沈黙のみ。また、ジャン・バルジャンに間違われた男が明日裁判にかけられると知った晩、他の映画では「このまま黙っていれば俺の身は安泰だ・・・しかし代りに牢に入る者のことを黙って見過ごすなんてことが出来るか?」という自問自答の台詞が流れたりする.この映画ではここも考え込むジャン・バルジャンの姿と沈黙があるのみだ。その直前にジャベールの放った「無期懲役は確実だ」という言葉が残像のように残る効果(その自問自答は映画を見ている人の心の中に起こる?)を計算しているとも言える。考え込むジャンバルジャンを照らす明かりはあの司教様からいただいた銀の燭台だ。(「これからは善に生きるのですよ」という司教様の声・・・そんな台詞なんかなくとも)映像が多くを語っているのだ。
しかし余計な文学的な台詞をいっさい排除した分、悪く言えば「味も素っ気も無い映画」になっていて、大衆娯楽作品としてはあまり魅力的とは言えない。でも、優れた映画作品の一つとして一見の価値は有る。この映画の真価を味わうにもやはり、(台詞が少ないからという理由だけでなく)事前の知識が豊富に必要かも。芸術作品の多くがそうであるように。

素晴らしい音楽表現

img20080402.jpg音符以前にもこのブログで紹介したことのある、コルンゴルト作曲によるオペラ「ヴィオランタ」をずいぶん聴いて、いろいろな素晴らしさが判ってきた。それをなんとか皆さんにも紹介したいと思い、特別ページを作りました。〔ここのブログだけでは紹介しきれないので)

パソコンお暇なときにそちらのページをお尋ねください。

http://www2.shobi-u.ac.jp/~itsuru/Violanta/Violanta.htm

ああ、この作品を生の演奏会で聴けたらなあ・・・・ドキドキ大
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