鶴ちゃんの気まぐれ日記

コルンゴルトをこよなく愛する作曲家、鶴ちゃんのページです

2010年07月

地デジ対策

アナログ放送終了まで、あと1年を切ってしまったそうです。皆さん、デジタル移行はお済みですか?
我が家は、本日やっと、デジタル化・アンテナ工事を完了しました。

工事と言っても、屋根にアンテナを立てた訳ではありません。我が家の屋根にはソーラー発電パネルがあり、アンテナ用の足場が組めないのです。そこで、やっとこのあたりでも実現化してきた「光テレビ」を導入することにしました。

工事の人が、配線チェックのために、家中の部屋をはいまわりました。家内はプンプン。
工事は1時間半ほどで無事完了。デジタルテレビは現在小型のものが2台。パソコン用の地デジチューナーも、今までよりきれいに写るようになりました。
でも、リビングにはまだ、ブラウン管テレビが鎮座しています。大型テレビの購入は様子を見てから。

・・・そろそろBS契約するかな。

最高傑作!?

コルンゴルト仲間のH氏と久しぶりに歓談した。
その折、「Die Sutumme Serenade」(沈黙のセレナード)のピアノスコアを貸していただいた。いまは発売されていないので、貴重な資料です。
DieStummeSerenade_m
私は、自分としてはこの曲がコルンゴルトの最高傑作だろうと思っている。
モーツァルトの作品の中で、数ある交響曲やオペラの傑作を差し置いて、あの「アイネ・クライネ・ナハト・ムジーク」を「最高傑作」と呼ぶようなものかもしれない。
もちろん、バイオリン協奏曲や、オペラ「死の都」の方が、コルンゴルトの作品の中で著名な作品である事は知っている。しかし、誰もが気楽にメロディーを口ずさめるかと言うと・・・ちょっと難しい。しかし、まだ無名な曲であるこの「沈黙のセレナード」には、口ずさめる楽しい歌、叙情的な歌などが満載なのである。
モーツァルトの「アイネクライネ・・・」が、多くの人に親しまれている名作であるように、コルンゴルトの作品の中ではこの、ミュージカル「沈黙のセレナード」こそが、最も親しまれる曲に(将来)なりうる、最高に素晴らしい作品であると、声を大にして叫びたい。
それにしても、まだ全曲CDもDVDも発売されておらず、「最高のものは最後に登場する」のだとしても、そろそろ出ても良い頃ではないか?早く発売してほしいものである。

「沈黙のセレナーデ」をちょっと聴いてみたい、という人は以下のページで探してください。
http://www.todoperaweb.com.ar/musica_429.html

大相撲中継中止

先ほど、NHKは大相撲名古屋場所を中継しない、との発表があった。ラジオをずっとつけていたが、記者会見の模様は放送されず、結論だけがニュースとして 流れた。

ん??NHKって、相撲協会に対する審判のような立場なのかなあ?????????
はてなマーク

他のスポーツで全試合放映しているスポーツなどない中、相撲だけは特別にすべて放送していた。この「特別扱い」が相撲界の「ぬるま湯的体質」を生ん だ・・・「間接的責任者」という自覚はないのかなあ???

NHKの責任者が、「相撲界の堕落を助長した面もあることを、おわび」とか、しなかったですか?
記者会見の模様をすべて報道してほしい!

次の場所もその次の場所も、放送はダイジェストだけでいい。少なくとも1年くらいは「全取り組み中継放送」など復活しなくてよい!。

もし、需要があるならば、民放に放映させればよい。さて、放映権を買う局があるか?

あの~~「高校野球」も中止してほしいんですけど・・・・

政治と宗教

日本では、政治の話や宗教の話を、話題として敬遠する傾向がある。これにはいろいろな理由があるだろう。権力者に対して批判的な話をすることは、ある意味権力者からにらまれることになるリスクを伴う。「壁に耳あり」なので、体制批判的な話はなかなか思うように話せるものではない。これが「政治の話はタブー」とする風潮の根源にあるのではないかと思う。誰でも自分がかわいいので、「お互いに危険を冒すのはやめましょう」と、当たり障りのない話題で済まそうとする。宗教に関しても、個人のプライバシーに深くかかわることなので、誰かを傷つける話のながれになることを恐れ、話題として取り上げないようにする。こういったことが主たる理由であろう。
しかし、「思想・信条の自由」や「信教の自由」は憲法で保障されている権利なので、このようなことが自由に会話できないことは(どこかの独裁国じゃあるまいし・・・)ある意味不幸な事ではないかと思う。
「話題に上げない」ことは「無関心」や「無知」に通じてゆく。民衆が政治に無知であることは、権力者にとってはとても都合のよいことなのだ。「簡単に国民をだますことが出来る」・・・このように権力者に思われてしまうことは不幸である。政治に対して「無知」であったり「無関心」であったりすることは、結局民衆自身が不幸になってゆくことに通じる。もっと、真の意味での「言論の自由」が確立した、本物の「民主主義」の国に成熟してゆきたいものだ。

「宗教」については憲法に定められた信教の自由があり、そのこと自体は問題ないが、やはり「宗教の話はタブー」という風潮が存在しているためか、宗教に対して無関心な人が多いように思う。この「無関心」が「無理解」になると、「信仰の尊重」という憲法本来の目的から遠ざかってゆく結果になる。フランスにおけるイスラム教が、いまその「無理解のために、信仰が尊重されない」事態に陥っているのではないかと思う。

ともあれ、日本社会では特に知識人の中に、宗教というものに対して疑念を感じている人が多いように思われる。これには、日本の歴史において宗教がどのような役割を果たしてきたかということが、底流にあるように鶴ちゃんは思う。「宗教者が(聖職者が)権力と結託して民衆を苦しめた」構図が古くからあったのではないだろうか?江戸時代に「寺社奉行」の出先機関として「寺院」が民衆を管理した。戸籍の役をする「宗門人別帳」なるもので、民衆を管理する手伝いをした。もちろん社会の秩序のためにはそれがプラスの役目を果たしたこともあったであろう事は認めなければならない。しかし「お上」と結びついて、「お寺」が民衆を苦しめる役を担ったと民衆から思われることも少なからずあったのではないかと推察できる。もしそういうことが全国どこにでもあった話だとすれば、日本における「宗教不信」もその根が深いものといわざるを得ない。
政治と同じく宗教に対しても、「無知・無関心」でいるよりは、「理解できる状態」でいたほうがよいに違いない。そのほうが、世界の民衆と理解・尊重し合いながら付き合ってゆく上で、有効だろうと思う・・・。
「政治」も「宗教」も、人生の幸・不幸にかかわってくるもの、だから、難しい話として避けているのではなく、本物と偽者を見分ける力をしっかりつけたほうが良いだろうに。変なやつに騙されないためにも。
鶴ちゃんは、20代の頃は仏教関係の本をよく読んでいたが、最近はキリスト教関係の本をいろいろと読んでいる。やっと「マタイ受難曲」の意味が少しだけ理解できるようになってきた・・・?
livedoor プロフィール
記事検索
QRコード
QRコード
  • ライブドアブログ