鶴ちゃんの気まぐれ日記

コルンゴルトをこよなく愛する作曲家、鶴ちゃんのページです

2011年03月

近況・・・追悼

東日本大震災のさなか、横浜に住んでいる叔母が急逝した。子供の無い独居老人だったので、何か協力できることが有ればしたいと、車で駆けつけたのだが、実質的にはほとんど何も協力できることはなかった。
そして、今日が通夜だったのだが、地震による計画停電のため横浜まで行ける交通機関が動いていない。一昨日行ったように車で行ければ良いのだが、ガソリンを使い果たしてしまい、給油したくともスタンドはどこも売り切れで営業していない。やむなく通夜への出席は断念し、弔電を打つだけにとどまった。ああ、私の心に翼が有ったなら、心だけは横浜の葬儀会場に飛んでゆくことだろう。おしゃべりだった叔母が、無言で横たわっていた(一昨日の)姿は、とても寂しいものだった。
そんな訳で、ビクトル・ユゴー作詞、レナルド・アーン作曲の「もしも私の詩に翼が有ったなら」という歌を、追悼歌として捧げたい。(もとの詩はラブソングですけどね)私の叔母と、大震災+津波で亡くなった多くの皆さんの冥福を祈ります。
http://www.youtube.com/watch?v=Nmghaz_F7EU

伝統無き時代の難しさ

カール・セーガン著の「人はなぜエセ科学に騙されるのか?」(上・下)を読んでいる。その中に次のような一節が有った。
「長い年月にわたって訓練方法が変わらなければ、伝統はそっくりそのまま次の世代へ受け渡される。しかし、学ぶべきことが短期間に、とくに一世代のうちに変わってしまうような時代には、何を教えるべきか、いかに教えるべきかが難しい問題となる。すると、生徒達は教育内容が時代遅れだと不平をこぼし、年長者を敬わなくなるだろう。一方、教師は教師で、教育水準が低下したとか、学生にやる気がなくなったなどと嘆くことになる。過渡期にある世界では、生徒と教師のどちらもが、ある一つの重要な技能を自力で身につけなくてはならないのだ。その技能とは、「いかに学ぶべきかを学ぶ」ことである。(以上、下巻より)(下線はブログ筆者)

今日は何もかもがめまぐるしく変化している時代で、この文章で言っている「過渡期」にあたるだろう、私自身、学生を指導していて、その世代間格差に愕然とすることもしばしば、ものごとを教えるのは難しいと感じている。
音楽や作曲技法に関しても、大きな変革期だった20世紀を過ぎて・・・・まだまだ、次の安定期は見えて来ない状況だと思っている。音楽を教えることもとても難しいと感じている毎日だ。
カール・セーガンがこの本を著したのは1996年頃のことである。
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