先月約一ヶ月半かけて「トロンボーンとピアノのためのソナチネ」を作曲した。
11月末日締切のトロンボーン作品作曲コンクールに応募するためだった。以前にも、今年4月に地元で開催した「ハートフル・コンサート」にトロンボーン奏者を迎えて開催したことで、「トロンボーン作品も書いてみたい」と考えるきっかけはあったが、11月締切のコンクールに背中を押される感じで、作曲を実現できた。
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書き終えた後、これまでに作った自作と今回の作品を比べてみて、進歩したかなぁ?と、あれこれ考えている。
マンドリンオーケストラのための「Notturno」を聞いたことがある人は、この作品の「休符を挟む連打によるため息交じりのようなフレーズ」を聞いて「前にも聞いたことがある感じだな、やはり鶴原勇夫の作品だな」と感ずるかもしれない。ユーホニアムのソナチネ一番を聞いたことのある人は、低いところから湧き上がってくるように第一主題が再現するところで、「前にも聞いたことがあるな、やはり鶴原勇夫の作品だな」と感ずるかもしれない。金管六重奏曲を聞いたことがある人は、緩徐楽章の中間部でミュートを使う部分で、「前にも聞いたことがあるな、やはり鶴原勇夫の作品だな」と感ずるかもしれない。ユーホニアムのソナチネ2番を聞いたことのある人なら、十六分音符で疾走しようとするフレーズを聞いて「前にも聞いたことがあるな、やはり鶴原勇夫の作品だな」と感ずるかもしれない。平井多美子の詩による「たんぽぽ」を知っている人なら、半音ずらしの和声連結により不思議感に誘われる部分で「前にも聞いたことがある感じだな、やはり鶴原勇夫の作品だな」と思うかもしれない。チェロとピアノのための「浜通りのための夜想曲」を知っている方は、長3度関係による連結を連続使用する部分で「前にも聞いたことがあるな、やはり鶴原勇夫の作品だな」と思うかな?
・・・とにかく、今までにやったことがあるようなことをまたやっているということであって、こういうのを「個性がある」と言うのか「進歩がない」と言うのか、・・・聞く人によって判断が分かれるだろう。
「たんぽぽ」でも「浜通りの夜想曲」でも「(お好きな)フォーレの影響がありますね」と言われたけれど、今回の曲は、もしかしてそうは言われないかもしれない。コルンゴルトの作品をよく知っている人なら「コルンゴルトの影響を受けていますね」と言うかもしれない。しかしその可能性は少ないだろう、コルンゴルトをよく聞いている人などめったにいないので。しかし、今回の作品で「何か今までの鶴原作品にはない新しい感じがする」と感じてくれた人がいたら、「コルンゴルトの影響を受けたからかもしれませんよ」と答えることにしよう。実際 「コルンゴルトの音楽を知らなかったら、こんな風には書かなかっただろうな」と自分で思える箇所がいくつかある。例えば、「現代音楽だろうと何だろうと、気に入って口ずさめる音楽が良い音楽だ」と勝手に思い込んでいる私は、口ずさめる範囲(およそ10度以内の音程)で一つのフレーズを書く傾向があった。今回の曲の主題は「10度の壁」を破っている。3楽章には1オクターブと7度の幅を持つフレーズも登場する。これなど、「コルンゴルトを知らなかったら書かなかったかもしれない」と自分で思うところだ。(器楽作品は声楽作品よりも広い音域が使えることを知らなかったわけではないが)コルンゴルトの音楽の自由闊達さに惹かれた私は、やはりその影響を受けている。コルンゴルト・ファンになった私は「次に書く曲は、フォーレとかではなくコルンゴルトの影響を受けた曲になるかもしれない」と思っていたが、どうもその通りになったようだ。
コンクールの結果がどうなるかはまだ予測できないが、いずれにしろ、来年のいつか初演できますように。