本リー・スモーリン著の「宇宙は自ら進化した」を読み返している。とても面白く,興味深い。今回は「哲学、宗教,そして宇宙」という章から引用し紹介しよう・・・

「17世紀から20世紀初めまで考えられていたのと同じように、いまでも宇宙を説明できる科学理論を作りたいという望みは、神を知りたいという探究と深く重なり合っている。その両方が宇宙の「背後」にある永遠で超越した存在から美と秩序が生まれると理解するための,絶対的なものの探究である.この時代のヨーロッパ文化が生み出したさまざまな側面、科学、哲学、神学、芸術のなかに、絶対で客観的な宇宙像を創造しようとする努力が見て取れる。その宇宙像は、私たちの生活の移り変りを、永遠で変化することのない偉大な存在に基づかせようとするものである。神について語っていようが、あるいは永遠で普遍的な自然の法則について語っていようが、支配的な考えは、身のまわりで首尾一貫していると思われるもののもととなる合理性は、宇宙にではなくその背後にある、というものである。」と、・・・このように現代の支配的考え方に対する彼の見かたを述べた上で(中略)彼自身の考え(提案・主張)を次のような疑問文の形で提示している・・・
宇宙は想像上の絶対的な存在で作られており、私たちの外観はその単なる影に過ぎないと考える代わりに、宇宙は関係のネットワークとして作られており,私たちの外観は真実の姿であると考えてはいけない理由があるのだろうか?」と・・・。

ここを読んだとき、鶴ちゃんの脳裏に若い頃に読んだ日蓮の書簡集の一節がよみがえって来た。引用すると・・・(日蓮が最高と位置づける「法華経」とそれ以前の諸経を比較して論じているところ)「彼の経経は・いまだ心あさくして法華経に及ばざれば・世間の法を仏法に依せてしらせて候、法華経は然らず・やがて世間の法が仏法の全体と釈せられて候。爾前の経の心は、心より万法を生ず、譬えは心は大地のごとし・草木は万法のごとしと申す、法華経は然らず・心すなわち大地・大地即草木なり、爾前の経の心は・心の澄むは月のごとし・心のきよきは花のごとし,法華経はしからず・月こそ心よ・花こそ心よと申す法門なり」と。20代の頃にこの一節を読んだ時は、ずいぶん哲学的で難解な印象を受けたが、今読むと少し解るような気がしてくる・・・そして、なんだかとてもリー・スモーリン氏の言っていることと似ているような気がするのだが・・・似ているようでじつは全然ちがうのか?・・・凡人の鶴ちゃんには判断しかねるが・・・(引用文中の下線は鶴ちゃんによる)

いずれにしても、科学も宗教哲学もなかなか難解なしろものだ・・・そして、とっても面白い。