鶴ちゃんの気まぐれ日記

コルンゴルトをこよなく愛する作曲家、鶴ちゃんのページです

宇宙・科学・哲学

パラレルワールド

有名な「タイムマシン」と言う映画では、主人公は80万年もの未来へと時間旅行してしまう。先日見た「タイムライン」と言う映画では、メンバー達は中世の世界へと旅をする。過去の出来事に変更を加えて歴史を書き換えたりしてはいけません。もうひとつ、過去でも未来でもない、現在の別世界というのをご存知だろうか?「パラレルワールド」といって、今この時にこの世界と同じ世界が別にもある・・・と言う話だ。2つとは限らない、可能性の数だけ、このパラレルワールドは存在する。多次元を扱う宇宙論でもこの考え方をとる学者は居る。
 鶴ちゃんは最近どこかのワームホールを踏んでしまったらしく、別世界へ来てしまったようだ。本来の正しい世界では、鶴ちゃんは3月に65歳で定年退職した後、給料は70%に下がるものの、特任教授となって70歳まで勤め続けているはずだった。今迷い込んだ世界では、鶴ちゃんは特任教授には成れず非常勤講師として勤めている。自分の研究室も無くなってしまった。教えていた優秀なレッスン生(学年で首席)も、他の先生の門下生になっている。まだ、この世界にはなじめず、いつもSF映画の世界にいるような気分になる。早くしかるべきワームホールを見つけて、本来の正しい世界に戻りたいと思っている。

今居るこの世界であった最近の楽しい出来事と言えば、三男坊が彼女を連れてきたことだ。派手さの無い
清楚な草食系女子という感じの娘だった。なんだか続けざまに孫が増えそうな予感・・・・・

「べン・ハー」を観て「イエスの奇跡」を思う。

私は、映画音楽が好きだが、音楽を知っていても映画はあまり良く知らない・・・という場合が多かった。ここで紹介する「ベン・ハー」も、音楽は編曲もした りして親しんでいたが、映画は一度見たきりで、ストーリーもおぼろげにしか判っていなかった。最近ブルーレイのディスクが発売されたので、」購入して久し ぶりにハイビジョンの大画面で鑑賞した。
BenHur_


ストーリーは、ユダヤの貴族ユダ・ベン・ハーの人生と、イエス・キリストの布教時代とを重ねている。最後は、ベン・ハーの母と妹の疫病がイエスの奇跡的力によって癒される。特典画像の中に1925年制作のサイレント映画による「ベン・ハー」も入っていたのでそちらも観た。ほとんどストーリー展開は同じだった。旧いバージョンの映画では、イエスが手をかざすと、みるみるうちに母と妹の顔がきれいになり、疫病が治ってしまった。当時としては精一杯の特撮技術だったのだろう。

しかしまじめな話・・・イエスの伝説に説かれている様々な奇跡は、どこまでが本当の話なのであろう?例えば、盲人がイエスに救われて目が見えるようになる。本人も「イエスに会う前は私が目が見えなかった」と証言したことだろう。それらの話は、精神的な意味で、哲学的な意味で、「イエスに会う前は自分は物事が正しく見えていなかった」と言うのなら、納得できる。仏教でも「この経は、総ての人の盲目を開く功徳が有る」と説かれていたりする。物理的な意味の盲人ではなく、象徴的な意味での「見えない人」なのだ、それなら判る。
しかし、どうやらキリスト教徒になるためには、イエスの奇跡を「象徴」と解するのではなく、「本当に有ったこと」と信じなければならないらしい。

イエスの「病気治癒の奇跡」を観ていて思い出したものが有る。それは「仏陀の病気治癒のエピソード」だ。何かの雑誌に載っていたものを(印象に残ったので)スキャナで取り込んでとってあったものだ。
www.cnet-sb.ne.jp/turuhara/Img/budda_m2.jpg
ここにおいておくので、時間のある人は読んでみてほしい。

このエピソードでも、仏陀が、他の人が治せなかった(本人も治せなかった)男の病気を治す。しかし、その治し方は道理にかなっている。偏見を捨てて、最善を尽くせば誰にも出来ることで、考えてみればこれは奇跡でも何でも無い。私の推測でしかないが、イエスの奇跡の数々も、元をたどればこの仏陀のエピソードのように、道理にかなった人間的な振る舞いの現れだったのではないだろうか。しかし、キリスト教の世界ではそのようには伝えられていないようだ。したがって私はキリスト教徒にはなれそうも無い。(^o^)

伝統無き時代の難しさ

カール・セーガン著の「人はなぜエセ科学に騙されるのか?」(上・下)を読んでいる。その中に次のような一節が有った。
「長い年月にわたって訓練方法が変わらなければ、伝統はそっくりそのまま次の世代へ受け渡される。しかし、学ぶべきことが短期間に、とくに一世代のうちに変わってしまうような時代には、何を教えるべきか、いかに教えるべきかが難しい問題となる。すると、生徒達は教育内容が時代遅れだと不平をこぼし、年長者を敬わなくなるだろう。一方、教師は教師で、教育水準が低下したとか、学生にやる気がなくなったなどと嘆くことになる。過渡期にある世界では、生徒と教師のどちらもが、ある一つの重要な技能を自力で身につけなくてはならないのだ。その技能とは、「いかに学ぶべきかを学ぶ」ことである。(以上、下巻より)(下線はブログ筆者)

今日は何もかもがめまぐるしく変化している時代で、この文章で言っている「過渡期」にあたるだろう、私自身、学生を指導していて、その世代間格差に愕然とすることもしばしば、ものごとを教えるのは難しいと感じている。
音楽や作曲技法に関しても、大きな変革期だった20世紀を過ぎて・・・・まだまだ、次の安定期は見えて来ない状況だと思っている。音楽を教えることもとても難しいと感じている毎日だ。
カール・セーガンがこの本を著したのは1996年頃のことである。

イエスの謎は?

結局、よくわかりませんでした。
JesusInterupped バート・D・アーマン著の「キリスト教成立の謎を解く」を読み終えました。
まだ日本語訳が出ていないときに,どうしても読みたくなり、原書を購入して辞書を片手に読んでいたのですが、まだ読み終えないうちに、日本語訳が発売され たので、購入して読みました。難しい内容なので,やはり日本語で読まないと論旨が理解できませんでした。(私の英語力では無理)
著者は聖書原点研究に熱心に取り組んできた聖書学者で、アメリカのノース・カロライナ大学の宗教学の教授。
私も最近興味を持って何冊かの本を読み、「本当のイエスはいったいどんな人だったのだろうか?」を探ろうとしたのですが、この本からもやはり本当のイエスの姿を発見する事は出来ませんでした。

本書にも書かれている通り、キリスト教は400年もの歳月をかけて現在「正当派」と呼ばれる「キリスト教」に落ち着いたものです。いわく「私たちが伝統的 なキリスト教と考えているものは、天から降ってきたのではなく、イエスの宣教活動直後から、著しい発展を遂げた。それはまた、単にイエスの教えから直接発 生したのではない。多くの点で、後にキリスト教と呼ばれるようになった宗教は、イエスの教えから大きく乖離することで成立した。批評的な歴史学者が、ずっ と前から認めているように、キリスト教は、イエス宗教ではなく、イエスについての宗教なのだ。」と。
私は、著者が「イエスの教えがユダヤ的だった」と述べていることを意外に感じ、しかも同意できません。私は,イエスが当時人々に信じられていたユダヤ教の 教えとは全く異なる、新しい宗教を広めたかったのではないか、と思っています。しかしそれが当時の人々に十分理解されないまま後世に伝えられ,伝えられる うちに様々な誤解や先入観から改変され変貌してゆき、400年後にはまったくイエスが思いもよらなかった宗教になっていったのではないでしょうか?。

イエスが「ユダヤの教えではだめだ、私の教えを聞きその通りに行動する人で世の中がいっぱいになれば、神の王国(すばらしい世界)になるはずだ」というような趣旨のことを教えていたかもしれないと鶴ちゃんは思う。でもそれが言い伝えになって「神の王国が必ず実現する。そのときにはイエスの教えを信ずる人だけがそこに入るのを許される」となってしまうと、・・・・それって違う!誤解ですよね。

見えない宇宙の本

最近読み終えた本です。
DarkCosmos_m
ダン・フーパー著「みえない宇宙」
最近話題になっている、「ダークマター」「ダークエネルギー」についての本かと思って買ったのだけれど、これまでの宇宙物理学全体を概観するような内容でした。これまでに読んできた知識を再確認しただけのような・・・・あ、この本の前に読んだ「重力の再発見」という本の内容にも触れていましたね。最新の情報まで紹介していることは紹介しているのだけれど、この本独自の主張のようなものはあまり感じられませんでしたね。

そして次に読もうと、この本も買いました。
EinsteinsTelescope_m
エアヴァリン・ゲイツ著の「アインシュタインの望遠鏡」
女流ですが・・・こちらの方が、重力についての面白い話が詳しく読めそうな予感。

重力の謎

重力に関しては、物理学の最新の知識を持ってしても未解決な謎が多いとされている。正しいとされている理論と、実際に観測されているものを比べると、宇宙には70パーセントもまだ発見されていない物質が存在する「はず」で、そのことを「ダークマター」と呼んだりしている。
そのような状況の中で、今正しいとされている物理学の常識にあえて疑問を突きつけ、別の仮説を提案する・・・・という位置づけの「重力の再発見」(著)という本を読んでみた。
重力の再発見

のっけから、アインシュタインの定説「光速不変の法則」に修正案を掲げ、「光速は宇宙の誕生初期には今より速かった(かも知れない)とすれば、ビッグバン無しでこの宇宙は始まったと考えることが可能だ。」などと述べている。
物理学の基本法則が、恒久不変のものでなく場合によって変化しうる、というのは・・・・確かに「場合によっては有る」ことなので、彼の説が正しいかどうかは、今後いろいろな形で検証されなければならないだろう。
判りやすいようで、判りにくい。今ひとつお薦めしにくい本だった。

「光速が(もしも)可変」のものだったら「赤方偏位で宇宙が膨張している」という考え方にたいして別の考え方は無いのか?鶴ちゃんは新解釈を期待したのだが、その辺りについては特に記述はなかった。
重力が「時空のゆがみ」だとする、アインシュタインの相対性理論が正しいとして、この宇宙がきれいにスピンしながら歪んでいるために、光の届くのが遅くなっている。(宇宙が膨張しているのではなく・・・)という仮説は成り立たないのかな????などと、本にも書かれていなかった勝手な疑問に取り憑かれている鶴ちゃんです。

政治と宗教

日本では、政治の話や宗教の話を、話題として敬遠する傾向がある。これにはいろいろな理由があるだろう。権力者に対して批判的な話をすることは、ある意味権力者からにらまれることになるリスクを伴う。「壁に耳あり」なので、体制批判的な話はなかなか思うように話せるものではない。これが「政治の話はタブー」とする風潮の根源にあるのではないかと思う。誰でも自分がかわいいので、「お互いに危険を冒すのはやめましょう」と、当たり障りのない話題で済まそうとする。宗教に関しても、個人のプライバシーに深くかかわることなので、誰かを傷つける話のながれになることを恐れ、話題として取り上げないようにする。こういったことが主たる理由であろう。
しかし、「思想・信条の自由」や「信教の自由」は憲法で保障されている権利なので、このようなことが自由に会話できないことは(どこかの独裁国じゃあるまいし・・・)ある意味不幸な事ではないかと思う。
「話題に上げない」ことは「無関心」や「無知」に通じてゆく。民衆が政治に無知であることは、権力者にとってはとても都合のよいことなのだ。「簡単に国民をだますことが出来る」・・・このように権力者に思われてしまうことは不幸である。政治に対して「無知」であったり「無関心」であったりすることは、結局民衆自身が不幸になってゆくことに通じる。もっと、真の意味での「言論の自由」が確立した、本物の「民主主義」の国に成熟してゆきたいものだ。

「宗教」については憲法に定められた信教の自由があり、そのこと自体は問題ないが、やはり「宗教の話はタブー」という風潮が存在しているためか、宗教に対して無関心な人が多いように思う。この「無関心」が「無理解」になると、「信仰の尊重」という憲法本来の目的から遠ざかってゆく結果になる。フランスにおけるイスラム教が、いまその「無理解のために、信仰が尊重されない」事態に陥っているのではないかと思う。

ともあれ、日本社会では特に知識人の中に、宗教というものに対して疑念を感じている人が多いように思われる。これには、日本の歴史において宗教がどのような役割を果たしてきたかということが、底流にあるように鶴ちゃんは思う。「宗教者が(聖職者が)権力と結託して民衆を苦しめた」構図が古くからあったのではないだろうか?江戸時代に「寺社奉行」の出先機関として「寺院」が民衆を管理した。戸籍の役をする「宗門人別帳」なるもので、民衆を管理する手伝いをした。もちろん社会の秩序のためにはそれがプラスの役目を果たしたこともあったであろう事は認めなければならない。しかし「お上」と結びついて、「お寺」が民衆を苦しめる役を担ったと民衆から思われることも少なからずあったのではないかと推察できる。もしそういうことが全国どこにでもあった話だとすれば、日本における「宗教不信」もその根が深いものといわざるを得ない。
政治と同じく宗教に対しても、「無知・無関心」でいるよりは、「理解できる状態」でいたほうがよいに違いない。そのほうが、世界の民衆と理解・尊重し合いながら付き合ってゆく上で、有効だろうと思う・・・。
「政治」も「宗教」も、人生の幸・不幸にかかわってくるもの、だから、難しい話として避けているのではなく、本物と偽者を見分ける力をしっかりつけたほうが良いだろうに。変なやつに騙されないためにも。
鶴ちゃんは、20代の頃は仏教関係の本をよく読んでいたが、最近はキリスト教関係の本をいろいろと読んでいる。やっと「マタイ受難曲」の意味が少しだけ理解できるようになってきた・・・?

ソクラテス!

Soclates_m
これは、なかなか良い本だ。知性の泉。
2000年前にこんな知性があったのに、どうしてもっと早くこれが世界精神にならなかったのだろうか・・・と思う。
キリスト教の普及が邪魔になったのかな?

聖書原典研究

最近読んだ初期キリスト教に関する研究書で、お奨めしたい3冊。
ペイゲルス
エレーヌ・ペイゲルス著「禁じられた福音書」
この本は、初期キリスト教時代に存在したさまざまな福音書が、現在の正統派福音書に「一本化」され、他は異端の書として葬り去られるに至った経緯を、学者の目で精緻に分析している。「なるほどそういう事だったのか」と、事情が納得できる、とても良い研究書だ。
マリア
カレン・L・キング著の「マグダラのマリアによる福音書」
この本は主に「マリアの福音書」について書かれた研究書で、イエスと行動を供にしていたマグダラのマリアが女性指導者としても優れた存在だった事を浮き彫りにしている。彼女が正統派教会では「娼婦が改心した者」とされている事については、「神学的な捏造」とはっきり言い切っている。優れた女性に対する嫉妬を克服出来なかった者達の末裔が現在の正統派教会である事まで、浮き彫りになってくるようだ。
アーマン
バート・D・アーマン著の「破綻した神キリスト」は、現代人の目から「苦しみの本質とその解決」をキリスト教に問いかけている。本人はクリスチャンとして、研究者として、聖書を徹底的に研究してきているが、その矛盾を解決する事は出来ないとの結論に達し、「(全知全能の慈悲深い)神様など信じられない」と、キリスト教を捨てるに至る。そして、「神のせいにするのでも神に頼るのでもなく、人間はこの世の不幸をなくす為になすべき事を為す以外に無い」と、現代人の常識で理解できる誠実な結論に至っている。実に善い本だと思う。しかしネットで見る限り、クリスチャンの多い西欧世界ではアーマン氏に賛同できない人が少なくはないようだ。生命を狙われないかと心配だ。

今読み始めているのはこれ
LostGospelQ
バートン・L・マック著の「失われた福音書」1994年発刊の本だ。Q資料を中心に研究している内容らしい。
「Q資料」とは=こちら

福音書(さらに)

judasgospel.jpg本欠落している箇所も多く、謎に満ちている。
とにかく難解!
まるで、禅問答の様でもある。
しかし、生命の永遠性や、宇宙の事や・・・何やら高度で難しい話題を・・・・
イエスとユダが話している。

そんな書物。

難しいぞ~~


「原典」とは言っても、これ以上古いものが見つかっていない「写本」なんだろうけどね。

この本を売っているところは、たとえばここ
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/493145061X/ref=ord_cart_shr

この福音書が発見されてから、解読までのドキュメンタリーを映像化したDVDも出ています。
こんな感じで・・・これがまためちゃ面白い!
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